あの子のマスクのはずしかた
「お先に失礼します!」
「お疲れ様でした」
午後五時過ぎ。某ファストフード店のアルバイトを終えて外に出ると、夕暮れが迫る街は人々でごった返していた。家路につくために駅を目指す人や、これから遊びに繁華街に繰り出す人。今日はいつもより空気があたたかいせいか、この時間にしては人通りが多いような気がする。
まだ時間も早いし、どこか寄り道したい気分だな。俺は隣を歩いている炭治郎に声を掛けた。
「なぁ、腹減ってないか?」
なにか食べて帰ろうか。そう誘ってみると、炭治郎は嬉しそうにこくりと頷いた。
「はい! ぜひ!」
ふわっと微笑んだ瞳が夕日のように赤く美しい。その笑顔を眺めながら、俺は心底もったいないと感じていた。
ああ。このマスクがなければなぁ。この不織布の下には、薄紅色の可愛い唇が隠れているのになぁ。ああ。もったいない。ああ。キスしたい。
アルバイト仲間の炭治郎と付き合いはじめて二ヶ月。俺はそろそろ恋人との関係をステップアップさせたいと考えていた。
「あぁ? キスする方法だぁ?」
「うん」
「簡単じゃねえか。そんなもん、マスク下げて派手にやりゃあいいんだよ」
「だから、それができるならはじめからお前に相談なんかしてない」
「そっか、それもそうだな」
童貞は大変だな、と宇髄が同情するような眼差しを向けてくる。やめろ。そんな目で俺を見るな。今更ながら、相談相手を間違えてしまったことをひどく後悔する。大学を二年留年している上に、事実婚状態の嫁が三人もいるような男だ。そんな意見が参考になるわけがない。しかし、色恋沙汰で気軽に相談できるのがこの男くらいしかいないのだ。俺は絶望的に友人が少ない。
「うーん…、やっぱり、雰囲気なんじゃねぇか」
「雰囲気……」
「相手って、まだ高校生なんだろ?」
「うん」
「じゃあ、派手に優しくリードしてやらねぇと」
「どういう風に」
「そりゃあお前、さりげなく手を握って」
「うん」
「ゆっくり抱き締めて」
「うん」
「そのままチュッと」
「……もっと簡単な方法はないのか」
「ねぇよ! これが一番オーソドックスなやり方だよ!」
俺は頭を抱えてしまった。ハードルが高い。世の中のカップルたちは、皆この煩雑な手順を踏んでいるのか。俺はいつになったら童貞を卒業できるのか。この世の終わりのような表情を浮かべていると、宇髄が慰めるように俺の肩をぽんぽんと叩いてくる。
「大丈夫だ、冨岡」
「宇髄……」
「安心しろ。童貞ならすぐに捨てられっから。いい店紹介してやる」
「…………」
やはり俺は、相談相手も友人選びも間違えてしまったに違いない。
「ありがとうございましたー!」
食事を終え、店員の元気な声に見送られながら店の外に出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。
「おいしかったですね! 俺お腹いっぱいです」
「ああ」
にこにこと可愛い笑顔を浮かべる炭治郎の横で、俺は虎視眈々とチャンスを狙っていた。
やる。今日こそ俺はやる。炭治郎とキスをするんだ。そしてゆくゆくはセックスして、炭治郎に俺の童貞を捧げる。そのまま順調に愛を育んでいって、炭治郎が二十歳になったら籍を入れるんだ。先日、このライフプランを宇髄に披露したところ、引きつった顔で激しくドン引きされてしまった。なぜなんだ。こんなに完璧な計画なのに。
「義勇さん?」
「あ、ああ」
「どうしたんですか? なんかおかしいですよ?」
具合でも悪いですか? と炭治郎が気遣うように声を掛けてくれる。なんて優しい子だろう。結婚したい。いや、結婚はしたいが今はそういうことじゃない。
俺はどきどきしながら炭治郎にお伺いを立てた。
「……手、繋いでもいいか?」
そう言って、緊張した面持ちで恋人からの返事を待つ。すると驚いたことに、炭治郎の方から俺の手に触れてきてくれた。手指を絡め、きゅっと恋人繋ぎをされる。
「……俺も、繋ぎたいと思ってたんです」
えへへ、と照れくさそうに笑いながら、俺の顔を上目遣いに見つめてくる。んんん。可愛い。激しく可愛い。やはりいくしかない。男なら。男に生まれたなら。今いくしかない。そうだろう錆兎。
心の中で親友に語り掛けながら、俺はとうとう意を決することにした。
そっと炭治郎の手を引き、人通りの少ない路地へと移動する。不審がられていないだろうか。心配になり、炭治郎の顔を窺ってみる。しかし、表情がうまく読みとれない。ただ、ほのかに赤らんだ頬はどこか期待しているようにも見えた。いや、これは都合のいい俺の妄想なのだろうか。
俺はふと足を止めると、ゆっくりと炭治郎の方へと向き直った。炭治郎は丸い大きな目で、じっと俺を見つめている。
やっぱり可愛い。どうしよう。触れたくてたまらない。
上手くやろう、とか、年上の俺がリードしなければ、とかいう気持ちは不思議とどこかへ飛んでいってしまった。ただただ、この子が愛おしい。
湧き上がる感情のまま、俺は炭治郎の身体を優しく抱き締めた。俺よりも小柄な炭治郎を、腕の中にすっぽりと包み込む。あたたかい。ハグをすると、こんな気持ちになるんだな。安心感。充足感。俺の心が、ぬくぬくとした感情でまあるく満ちみちていく。
幸せだなぁ。俺がじんとしながら感動に浸っていると、炭治郎の腕がおずおずと俺の背中にまわり、そのまま抱き締め返してくれる。
「……好きです、義勇さん」
そうぽそりと呟くと、俺の胸元に恥ずかしそうに顔を埋めてくる。その瞬間、俺の心臓はどくんと大きな音を立てた。炭治郎のこんなに甘えた声は、今まで聞いたことがない。身体の芯に、抗いようのない熱い血潮が集まってくる。
どうにかしたい。この可愛い子を、今すぐどうにかしたい。
こんな衝動的なことを思うのは、生まれてはじめてだった。
俺は身体を少し離すと、炭治郎の顔を静かに見つめた。炭治郎も、とろんとした目で俺に視線を返してくれる。
いける。キスできる。そう思った瞬間だった。
俺はある重大な問題に気付き、激しく狼狽した。
マスク……? マスクはどうしたらいいんだ……?
ここにきて、俺の前に最難関の問題が立ちはだかる。
待て。落ち着け。落ち着くんだ俺。まずはシミュレーションしろ。
正直に外してほしい、と口に出して頼むのはどうか。今さら? このタイミングで? さすがに間抜けすぎやしないか? それなら無言で俺が外せばいいのでは。いや、勝手に人様のマスクを触るのはどうなんだ。このご時世だし、気を遣わなければならないんじゃないか? というか、そんなことを言い出したらキスなんか一番だめなやつじゃないか! いや、それはそうなんだが。でもしたい。俺はしたい! じゃあどうしたらいいんだ! 錆兎! 俺はどうしたら!
もちろん錆兎はなにも答えてはくれない。大体あいつは遠方の大学に進学したので、ここ一年くらいまともに会えてすらいないのだ。ああ誰か助けてくれ。こんなに頭を働かせたのは久しぶりだ。迷い犬に追いかけられて、必死で撒く方法を考えた時以来だ。
ようやくここまでこぎつけたのに。あと一息だというのに。土壇場で、そのもう一歩が踏み出せない。こうしてもたついている間にも、俺の自信とやる気はどんどん失われていってしまう。だから俺は童貞なのか。やはり、今日も無理なのか。蔦子姉さん。錆兎。未熟でごめん。あ、姉さんに仕送りの荷物届いたって、後でLINE送っておかないと。
急激に沈んだ表情になっていく俺の顔を、炭治郎が心配そうな様子で見つめている。こんな年下の子にまで気を遣わせて、俺は心底どうしようもない奴だなぁ。半ば投げやりな気分で自身を嘲っている時だった。
炭治郎がなにかに気付いたように「あ」と小さな声を上げる。
「義勇さん、ここ、髪の毛引っかかってますよ?」
「え?」
「ほら、ここ、マスクの紐のところ」
「ここ?」
「あー、そこじゃなくて、えっと、もう俺が直しちゃっていいですか?」
ああ、頼む。と俺が口に出すのと、炭治郎の顔が近付くのは、果たしてどちらが早かっただろう。
炭治郎はごく自然な仕草で俺のマスクを外すと、同時に自分のマスクも顎まで下げる。そして少し伸び上がり顔を傾けると、俺の唇にキスしてきた。その動作があまりにもなめらかすぎて、俺は唇を奪われながら面食らってしまった。なにが起きたのか瞬時には理解できなかった。それくらいあざやかな手際だった。
呆気にとられている俺を尻目に、炭治郎はぺろりと唇を舐めながら楽しそうに笑っている。
「こうじゃないですか? 義勇さん」
そう言いながら、ふふふ、といたずらが成功した子供のように無邪気に微笑んでいる。
まさかの先手を取られ、俺は放心状態だ。なんなんだ。なんなんだこの可愛らしい生き物は。天使か? さては天使なんだな? ん? この場合は小悪魔か? もうこの際なんだっていい。年上の沽券こけんとか、そんなものもどうだっていい。
炭治郎からキスしてくれた。それはつまり、炭治郎も俺と同じ気持ちだということだ。俺とこういうことをしたいと、思ってくれていたということだ。それが嬉しくないわけがないだろう。
俺は炭治郎の肩に手を置くと、熱のこもった声でおどおどと聞いてみる。
「炭治郎……、もう一度、いいか……?」
我ながら余裕がないのが見えみえだ。しかし俺は童貞なんだ。失うものはなにもないのだから、今更下手に取り繕っても仕方がない。当たって砕けろだ。いや、実際は砕けたくはないし、童貞は失いたいのだけれども。とにかく、いくならハードルが下がった今この瞬間しかない。
俺の勢いに気圧けおされたのか、炭治郎は少し驚いた様子をみせたが、すぐに照れくさそうな表情でこくんと頷いてくれた。
俺は喜びで胸がいっぱいになった。どきどきと逸る気持ちを抑えながら、今度はこちらから顔を近付けていく。鼻筋が当たらないように顔を傾け、恐るおそる唇を押し当てる。
炭治郎のそこは、思った以上に柔らかかった。そして、とてもあたたかい。気持ちいい。ふわふわだ。離れたくない。もっと、もっと味わいたい。
俺は細い腰をぐっと抱き寄せると、夢中になって炭治郎とのキスに溺れた。もう一度、なんて言っておいて、やはりそれだけでは済まなかった。ちゅっ、ちゅっ、と啄むように何度も浅いキスを繰り返す。
いけない。自分の欲をぶつけるような形になってしまっている。これでは炭治郎に嫌われてしまう。自制しなければ。そう思った時だった。
炭治郎が俺の背中に腕をまわし、さらに身体を密着させてきたのだ。もたれるように甘く寄りかかられると、俺は眩暈がしそうな気持ちになった。
ああ。赦ゆるしてくれるのか。たまらない。もっと深く交わりたい。
欲が出てきてしまった俺は、可愛い唇の合わせ目をノックするように、舌でゆるりとなぞってみる。ダメ元でやったことだったが、優しい恋人はそこに招き入れるように少し隙間を開けてくれた。俺は嬉しくなり、誘いざなわれるがままにその未知の領域へと舌を差し入れる。
はじめて入る炭治郎の口の中は、熱くてとてもぬるぬるしていた。奥で縮こまっている小さな舌見つけ、すくうようにゆっくりと絡めていく。すると、炭治郎の口からわずかに喘ぎ声が漏れた。
「ん…、んぅ……っ」
くちくちと鳴る水音の狭間で響く、か細い吐息。唇を濡らす互いの唾液と、腰にくる甘い声が俺の五感を刺激してやまない。今まで観てきたどんなAVよりも、ずっと、ずっと興奮する。
まいったな。このまま終わりたくない。もっとたくさん、炭治郎に触れたい。
その瞬間、俺の硬くなりはじめたものが炭治郎の股間を擦ったので、炭治郎は驚いて唇を離してしまった。
「あ……っ」
「わっ、悪い…っ」
お前が可愛くて、つい。俺は正直に白状せざるを得なかった。だって、ここをこんなにしておいて、今更隠すもなにもあったもんじゃない。生理現象とはいえ、男というのはつくづく隠し事には向かない生き物だ。いや、むしろ律儀ともいうべきか。好きな子といやらしいことをしているのだから、反応するなというのが無理な話なのだ。
しかし、キスだけでこんなにみなぎってしまうものなのかな。これ以上のことをしてしまったら、俺の愚息は一体どうなってしまうのだろう。
そんな、いつの日になるとも分からない心配事に心を砕いていた時だった。
急に炭治郎が強く抱きついてきたので、俺はうっかり身体の重心を崩しそうになる。
「たっ、炭治郎……っ?」
どうしたんだ。そう言って赤茶色の猫っ毛を優しく撫でた時だった。ふとかち合った瞳に、俺は思わず息を飲んだ。
その柘榴の双眸は、見たこともないくらいとろとろに濡れそぼっていた。丸みの残る頬を赤く染め、縋るような表情でじっと俺を見つめている。
「……ぎ、ぎゆうさん…っ、あの……」
俺の名前を呼ぶ声は、夜の闇に消え入りそうなくらいしっとりと湿り気を帯びていた。
俺は、はっきり言って奥手だ。今まで誰かと付き合ったことはないし、セックスの経験もない。だが、そんな俺でも、これだけはなんとなく分かる。
俺は今、誘われている。この先の行為を望まれている。
そう思った。
「……家に来るか?」
まさか、自分の口からこんな台詞が無意識に出てくるとは思ってもみなかった。さっきまでのプレッシャーが嘘のようだ。
今、俺の頭の中はやけに静まり返っている。違う。そうじゃない。俺は考えはじめているのだ。どのようにこの子を抱いて、どうやって気持ちよくしてあげたらいいのか、俺は考えはじめている。
不思議と漂う万能感のままに、俺は目の前の丸い頬にそっと指を這わせた。「炭治郎」と、低めの声に静かに名前を乗せる。すると、炭治郎はひくんと肩を震わせながら、じわりと瞳を潤ませた。「はい」と短く返ってきた言葉は、それこそベッドの上で聞く喘ぎ声のようだと思った。
事前にコンドームとローションを準備しておいてよかった。必要になるのはもっと先だと思っていたが、念のため先日の通販でついで買いしておいたのだ。
炭治郎と手を繋ぎながら家路を急ぐ俺は、過去の自分に称賛を送らずにはいられなかった。
「宇髄、俺はやり遂げた」
後日。俺は友人に本懐を遂げた旨を報告をした。一応相談に乗ってもらった手前、きちんと伝えるべきかと思ったのだ。俺はこう見えて義理堅い男で通している。
この一報を聞き、宇髄は口笛を吹きながらパチパチと手を叩いて祝福してくれた。
「マジか! やったな冨岡!」
「ああ」
「なら、脱童貞まであと少しだな。いやぁ、感慨深ぇなおい」
「もうした」
「は?」
「セックスもした。俺はもう童貞じゃない」
「は? え? ちょ、展開早くね?」
「プロポーズもした」
「おい、話が急すぎんだろ」
「炭治郎もいいと言ってくれたし」
「たんじろう……? え? お前の彼女って、男だったのかよ!? ん? 彼女? 彼氏?」
そういえば、まだ言ってなかったか。しれっとカミングアウトをキメられた宇髄はしばらく混乱していたようだったが、しかし急激になにかを悟ったらしい。真面目な顔で真っ直ぐ俺を見つめると、感慨深げにこう呟いた。
「……いや。愛し合ってんなら、男とか女とか、関係ねぇな」
「そうだろう」
「そっか。そうだな。よし! 冨岡! ド派手にセックスしろよ! そんで結婚しろ! ご祝儀奮発してやる!」
先日の言葉を訂正する。
俺は、かわいい恋人と、良き友人の両方に恵まれた幸せ者だ。
「お先に失礼します!」
「お疲れ様でした」
午後五時過ぎ。某ファストフード店のアルバイトを終えて外に出ると、夕暮れが迫る街は人々でごった返していた。家路につくために駅を目指す人や、これから遊びに繁華街に繰り出す人。今日はいつもより空気があたたかいせいか、この時間にしては人通りが多いような気がする。
まだ時間も早いし、どこか寄り道したい気分だな。俺は隣を歩いている炭治郎に声を掛けた。
「なぁ、腹減ってないか?」
なにか食べて帰ろうか。そう誘ってみると、炭治郎は嬉しそうにこくりと頷いた。
「はい! ぜひ!」
ふわっと微笑んだ瞳が夕日のように赤く美しい。その笑顔を眺めながら、俺は心底もったいないと感じていた。
ああ。このマスクがなければなぁ。この不織布の下には、薄紅色の可愛い唇が隠れているのになぁ。ああ。もったいない。ああ。キスしたい。
アルバイト仲間の炭治郎と付き合いはじめて二ヶ月。俺はそろそろ恋人との関係をステップアップさせたいと考えていた。
「あぁ? キスする方法だぁ?」
「うん」
「簡単じゃねえか。そんなもん、マスク下げて派手にやりゃあいいんだよ」
「だから、それができるならはじめからお前に相談なんかしてない」
「そっか、それもそうだな」
童貞は大変だな、と宇髄が同情するような眼差しを向けてくる。やめろ。そんな目で俺を見るな。今更ながら、相談相手を間違えてしまったことをひどく後悔する。大学を二年留年している上に、事実婚状態の嫁が三人もいるような男だ。そんな意見が参考になるわけがない。しかし、色恋沙汰で気軽に相談できるのがこの男くらいしかいないのだ。俺は絶望的に友人が少ない。
「うーん…、やっぱり、雰囲気なんじゃねぇか」
「雰囲気……」
「相手って、まだ高校生なんだろ?」
「うん」
「じゃあ、派手に優しくリードしてやらねぇと」
「どういう風に」
「そりゃあお前、さりげなく手を握って」
「うん」
「ゆっくり抱き締めて」
「うん」
「そのままチュッと」
「……もっと簡単な方法はないのか」
「ねぇよ! これが一番オーソドックスなやり方だよ!」
俺は頭を抱えてしまった。ハードルが高い。世の中のカップルたちは、皆この煩雑な手順を踏んでいるのか。俺はいつになったら童貞を卒業できるのか。この世の終わりのような表情を浮かべていると、宇髄が慰めるように俺の肩をぽんぽんと叩いてくる。
「大丈夫だ、冨岡」
「宇髄……」
「安心しろ。童貞ならすぐに捨てられっから。いい店紹介してやる」
「…………」
やはり俺は、相談相手も友人選びも間違えてしまったに違いない。
「ありがとうございましたー!」
食事を終え、店員の元気な声に見送られながら店の外に出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。
「おいしかったですね! 俺お腹いっぱいです」
「ああ」
にこにこと可愛い笑顔を浮かべる炭治郎の横で、俺は虎視眈々とチャンスを狙っていた。
やる。今日こそ俺はやる。炭治郎とキスをするんだ。そしてゆくゆくはセックスして、炭治郎に俺の童貞を捧げる。そのまま順調に愛を育んでいって、炭治郎が二十歳になったら籍を入れるんだ。先日、このライフプランを宇髄に披露したところ、引きつった顔で激しくドン引きされてしまった。なぜなんだ。こんなに完璧な計画なのに。
「義勇さん?」
「あ、ああ」
「どうしたんですか? なんかおかしいですよ?」
具合でも悪いですか? と炭治郎が気遣うように声を掛けてくれる。なんて優しい子だろう。結婚したい。いや、結婚はしたいが今はそういうことじゃない。
俺はどきどきしながら炭治郎にお伺いを立てた。
「……手、繋いでもいいか?」
そう言って、緊張した面持ちで恋人からの返事を待つ。すると驚いたことに、炭治郎の方から俺の手に触れてきてくれた。手指を絡め、きゅっと恋人繋ぎをされる。
「……俺も、繋ぎたいと思ってたんです」
えへへ、と照れくさそうに笑いながら、俺の顔を上目遣いに見つめてくる。んんん。可愛い。激しく可愛い。やはりいくしかない。男なら。男に生まれたなら。今いくしかない。そうだろう錆兎。
心の中で親友に語り掛けながら、俺はとうとう意を決することにした。
そっと炭治郎の手を引き、人通りの少ない路地へと移動する。不審がられていないだろうか。心配になり、炭治郎の顔を窺ってみる。しかし、表情がうまく読みとれない。ただ、ほのかに赤らんだ頬はどこか期待しているようにも見えた。いや、これは都合のいい俺の妄想なのだろうか。
俺はふと足を止めると、ゆっくりと炭治郎の方へと向き直った。炭治郎は丸い大きな目で、じっと俺を見つめている。
やっぱり可愛い。どうしよう。触れたくてたまらない。
上手くやろう、とか、年上の俺がリードしなければ、とかいう気持ちは不思議とどこかへ飛んでいってしまった。ただただ、この子が愛おしい。
湧き上がる感情のまま、俺は炭治郎の身体を優しく抱き締めた。俺よりも小柄な炭治郎を、腕の中にすっぽりと包み込む。あたたかい。ハグをすると、こんな気持ちになるんだな。安心感。充足感。俺の心が、ぬくぬくとした感情でまあるく満ちみちていく。
幸せだなぁ。俺がじんとしながら感動に浸っていると、炭治郎の腕がおずおずと俺の背中にまわり、そのまま抱き締め返してくれる。
「……好きです、義勇さん」
そうぽそりと呟くと、俺の胸元に恥ずかしそうに顔を埋めてくる。その瞬間、俺の心臓はどくんと大きな音を立てた。炭治郎のこんなに甘えた声は、今まで聞いたことがない。身体の芯に、抗いようのない熱い血潮が集まってくる。
どうにかしたい。この可愛い子を、今すぐどうにかしたい。
こんな衝動的なことを思うのは、生まれてはじめてだった。
俺は身体を少し離すと、炭治郎の顔を静かに見つめた。炭治郎も、とろんとした目で俺に視線を返してくれる。
いける。キスできる。そう思った瞬間だった。
俺はある重大な問題に気付き、激しく狼狽した。
マスク……? マスクはどうしたらいいんだ……?
ここにきて、俺の前に最難関の問題が立ちはだかる。
待て。落ち着け。落ち着くんだ俺。まずはシミュレーションしろ。
正直に外してほしい、と口に出して頼むのはどうか。今さら? このタイミングで? さすがに間抜けすぎやしないか? それなら無言で俺が外せばいいのでは。いや、勝手に人様のマスクを触るのはどうなんだ。このご時世だし、気を遣わなければならないんじゃないか? というか、そんなことを言い出したらキスなんか一番だめなやつじゃないか! いや、それはそうなんだが。でもしたい。俺はしたい! じゃあどうしたらいいんだ! 錆兎! 俺はどうしたら!
もちろん錆兎はなにも答えてはくれない。大体あいつは遠方の大学に進学したので、ここ一年くらいまともに会えてすらいないのだ。ああ誰か助けてくれ。こんなに頭を働かせたのは久しぶりだ。迷い犬に追いかけられて、必死で撒く方法を考えた時以来だ。
ようやくここまでこぎつけたのに。あと一息だというのに。土壇場で、そのもう一歩が踏み出せない。こうしてもたついている間にも、俺の自信とやる気はどんどん失われていってしまう。だから俺は童貞なのか。やはり、今日も無理なのか。蔦子姉さん。錆兎。未熟でごめん。あ、姉さんに仕送りの荷物届いたって、後でLINE送っておかないと。
急激に沈んだ表情になっていく俺の顔を、炭治郎が心配そうな様子で見つめている。こんな年下の子にまで気を遣わせて、俺は心底どうしようもない奴だなぁ。半ば投げやりな気分で自身を嘲っている時だった。
炭治郎がなにかに気付いたように「あ」と小さな声を上げる。
「義勇さん、ここ、髪の毛引っかかってますよ?」
「え?」
「ほら、ここ、マスクの紐のところ」
「ここ?」
「あー、そこじゃなくて、えっと、もう俺が直しちゃっていいですか?」
ああ、頼む。と俺が口に出すのと、炭治郎の顔が近付くのは、果たしてどちらが早かっただろう。
炭治郎はごく自然な仕草で俺のマスクを外すと、同時に自分のマスクも顎まで下げる。そして少し伸び上がり顔を傾けると、俺の唇にキスしてきた。その動作があまりにもなめらかすぎて、俺は唇を奪われながら面食らってしまった。なにが起きたのか瞬時には理解できなかった。それくらいあざやかな手際だった。
呆気にとられている俺を尻目に、炭治郎はぺろりと唇を舐めながら楽しそうに笑っている。
「こうじゃないですか? 義勇さん」
そう言いながら、ふふふ、といたずらが成功した子供のように無邪気に微笑んでいる。
まさかの先手を取られ、俺は放心状態だ。なんなんだ。なんなんだこの可愛らしい生き物は。天使か? さては天使なんだな? ん? この場合は小悪魔か? もうこの際なんだっていい。年上の沽券こけんとか、そんなものもどうだっていい。
炭治郎からキスしてくれた。それはつまり、炭治郎も俺と同じ気持ちだということだ。俺とこういうことをしたいと、思ってくれていたということだ。それが嬉しくないわけがないだろう。
俺は炭治郎の肩に手を置くと、熱のこもった声でおどおどと聞いてみる。
「炭治郎……、もう一度、いいか……?」
我ながら余裕がないのが見えみえだ。しかし俺は童貞なんだ。失うものはなにもないのだから、今更下手に取り繕っても仕方がない。当たって砕けろだ。いや、実際は砕けたくはないし、童貞は失いたいのだけれども。とにかく、いくならハードルが下がった今この瞬間しかない。
俺の勢いに気圧けおされたのか、炭治郎は少し驚いた様子をみせたが、すぐに照れくさそうな表情でこくんと頷いてくれた。
俺は喜びで胸がいっぱいになった。どきどきと逸る気持ちを抑えながら、今度はこちらから顔を近付けていく。鼻筋が当たらないように顔を傾け、恐るおそる唇を押し当てる。
炭治郎のそこは、思った以上に柔らかかった。そして、とてもあたたかい。気持ちいい。ふわふわだ。離れたくない。もっと、もっと味わいたい。
俺は細い腰をぐっと抱き寄せると、夢中になって炭治郎とのキスに溺れた。もう一度、なんて言っておいて、やはりそれだけでは済まなかった。ちゅっ、ちゅっ、と啄むように何度も浅いキスを繰り返す。
いけない。自分の欲をぶつけるような形になってしまっている。これでは炭治郎に嫌われてしまう。自制しなければ。そう思った時だった。
炭治郎が俺の背中に腕をまわし、さらに身体を密着させてきたのだ。もたれるように甘く寄りかかられると、俺は眩暈がしそうな気持ちになった。
ああ。赦ゆるしてくれるのか。たまらない。もっと深く交わりたい。
欲が出てきてしまった俺は、可愛い唇の合わせ目をノックするように、舌でゆるりとなぞってみる。ダメ元でやったことだったが、優しい恋人はそこに招き入れるように少し隙間を開けてくれた。俺は嬉しくなり、誘いざなわれるがままにその未知の領域へと舌を差し入れる。
はじめて入る炭治郎の口の中は、熱くてとてもぬるぬるしていた。奥で縮こまっている小さな舌見つけ、すくうようにゆっくりと絡めていく。すると、炭治郎の口からわずかに喘ぎ声が漏れた。
「ん…、んぅ……っ」
くちくちと鳴る水音の狭間で響く、か細い吐息。唇を濡らす互いの唾液と、腰にくる甘い声が俺の五感を刺激してやまない。今まで観てきたどんなAVよりも、ずっと、ずっと興奮する。
まいったな。このまま終わりたくない。もっとたくさん、炭治郎に触れたい。
その瞬間、俺の硬くなりはじめたものが炭治郎の股間を擦ったので、炭治郎は驚いて唇を離してしまった。
「あ……っ」
「わっ、悪い…っ」
お前が可愛くて、つい。俺は正直に白状せざるを得なかった。だって、ここをこんなにしておいて、今更隠すもなにもあったもんじゃない。生理現象とはいえ、男というのはつくづく隠し事には向かない生き物だ。いや、むしろ律儀ともいうべきか。好きな子といやらしいことをしているのだから、反応するなというのが無理な話なのだ。
しかし、キスだけでこんなにみなぎってしまうものなのかな。これ以上のことをしてしまったら、俺の愚息は一体どうなってしまうのだろう。
そんな、いつの日になるとも分からない心配事に心を砕いていた時だった。
急に炭治郎が強く抱きついてきたので、俺はうっかり身体の重心を崩しそうになる。
「たっ、炭治郎……っ?」
どうしたんだ。そう言って赤茶色の猫っ毛を優しく撫でた時だった。ふとかち合った瞳に、俺は思わず息を飲んだ。
その柘榴の双眸は、見たこともないくらいとろとろに濡れそぼっていた。丸みの残る頬を赤く染め、縋るような表情でじっと俺を見つめている。
「……ぎ、ぎゆうさん…っ、あの……」
俺の名前を呼ぶ声は、夜の闇に消え入りそうなくらいしっとりと湿り気を帯びていた。
俺は、はっきり言って奥手だ。今まで誰かと付き合ったことはないし、セックスの経験もない。だが、そんな俺でも、これだけはなんとなく分かる。
俺は今、誘われている。この先の行為を望まれている。
そう思った。
「……家に来るか?」
まさか、自分の口からこんな台詞が無意識に出てくるとは思ってもみなかった。さっきまでのプレッシャーが嘘のようだ。
今、俺の頭の中はやけに静まり返っている。違う。そうじゃない。俺は考えはじめているのだ。どのようにこの子を抱いて、どうやって気持ちよくしてあげたらいいのか、俺は考えはじめている。
不思議と漂う万能感のままに、俺は目の前の丸い頬にそっと指を這わせた。「炭治郎」と、低めの声に静かに名前を乗せる。すると、炭治郎はひくんと肩を震わせながら、じわりと瞳を潤ませた。「はい」と短く返ってきた言葉は、それこそベッドの上で聞く喘ぎ声のようだと思った。
事前にコンドームとローションを準備しておいてよかった。必要になるのはもっと先だと思っていたが、念のため先日の通販でついで買いしておいたのだ。
炭治郎と手を繋ぎながら家路を急ぐ俺は、過去の自分に称賛を送らずにはいられなかった。
「宇髄、俺はやり遂げた」
後日。俺は友人に本懐を遂げた旨を報告をした。一応相談に乗ってもらった手前、きちんと伝えるべきかと思ったのだ。俺はこう見えて義理堅い男で通している。
この一報を聞き、宇髄は口笛を吹きながらパチパチと手を叩いて祝福してくれた。
「マジか! やったな冨岡!」
「ああ」
「なら、脱童貞まであと少しだな。いやぁ、感慨深ぇなおい」
「もうした」
「は?」
「セックスもした。俺はもう童貞じゃない」
「は? え? ちょ、展開早くね?」
「プロポーズもした」
「おい、話が急すぎんだろ」
「炭治郎もいいと言ってくれたし」
「たんじろう……? え? お前の彼女って、男だったのかよ!? ん? 彼女? 彼氏?」
そういえば、まだ言ってなかったか。しれっとカミングアウトをキメられた宇髄はしばらく混乱していたようだったが、しかし急激になにかを悟ったらしい。真面目な顔で真っ直ぐ俺を見つめると、感慨深げにこう呟いた。
「……いや。愛し合ってんなら、男とか女とか、関係ねぇな」
「そうだろう」
「そっか。そうだな。よし! 冨岡! ド派手にセックスしろよ! そんで結婚しろ! ご祝儀奮発してやる!」
先日の言葉を訂正する。
俺は、かわいい恋人と、良き友人の両方に恵まれた幸せ者だ。
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