あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。
凍えるような寒さの雲取山。雪の上に飛び散った血飛沫。折り重なった家族の亡骸。そして、鬼になった少女と、その少女をなんとか守ろうとする、健気で悲しい少年の姿。
この二年間、義勇は彼らのことを忘れたことがなかった。自身が鬼殺の道に導いた、という因果もあるが、どうしても忘れることができなかったのだ。あの日、妹を取り返そうと我武者羅に向かってきた赫い瞳から目が離せなかった。
今思えば、その時すでに囚われていたように思う。 なにか、とてつもないものを秘めた、炭治郎の燃えたぎる瞳に。 二年後。炭治郎が最終選別を突破し、鬼殺の隊士になったのを師の文で知った。妹も人を喰うことなく、兄と共に鬼狩りをしているという。 単純に嬉しかった。己の見立てに狂いはなかった。というよりも、生きている、というたったそれだけことがまるで奇跡のような世界だから、どちらかというと感謝の気持ちが強かった。あの二人を生かしてくれてありがとう、と柄にもなく信じていない神仏に念を送ったりもした。 そして今日も、義勇は蝶屋敷へと足を運ぶ。那田蜘蛛山の一件以来、それが習慣と化していた。
「あ、冨岡さん!」 鼻が利く炭治郎は、すでに義勇の訪問に気付いていた。 「炭治郎。変わりないか」 「はい! おかげさまで順調に……、っと。良かったら縁側に移動しませんか?」 声の音量を下げたのは、午睡をとっている同期たちを気遣ってのことだろう。義勇は頷くと、炭治郎と共に屋敷の縁側へと場所を移すことにした。 「昨日しのぶさんが来て、そろそろ機能回復訓練をしようって話になったんですよ。なにをするのかわからないですけど、俺がんばります!」 息巻いている弟弟子の横で、義勇は「そうか」だけ返事をした。 自覚はないが、どうやら己は他者と意志疎通がうまくはかれていないらしい。先日胡蝶に言われたことを、義勇はいまだ根に持っていた。はなはだ納得しかねるが、しかし、過去を振り返ると、こちらの発言や態度で周りが妙な雰囲気になったのは一度や二度のことではない。おおむね当たってはいるのだろう。それでも、やはり納得はしかねるが。 そんなわけで、今では同僚の柱たちでさえ義勇とは付かず離れずの態度で接しているが、しかし、この弟弟子だけは違っていた。とにかく押しが強いのだ。義勇の反応の薄さなど気にも止めず、今も、善逸が、伊之助が、と同期の近況報告にいとまがない。おそらく、炭治郎は兄弟子以上に空気が読めない。普段は持ち前の明るさで誤魔化されているが、この男も相当なたまだと思う。 しかし、義勇にとって炭治郎の側は居心地がよかった。同じ師の元で学んだゆえ、そもそもの波長が似ているのだろう。まるで陽だまりのごとき炭治郎の前向きさは、義勇の心を明るく照らす天道のようだった。 「……俺たちが、もう少し早く山に入っていれば、被害は最小限に食い止められただろうか」 急にぽつりと呟いた義勇の言葉に、炭治郎がふと口をつぐむ。 鬼殺隊に身を置いてからというもの、犠牲になる隊士や市井の人々を山ほど見てきた。あまりにも目にするものだから、いつしかいちいち心を寄せるのをやめた。しかし、やめたからといってなにも感じなくなったわけではない。苦しむ者を助けたいと思い、この生業に身を投じている。必死で技を磨き、腕を上げ、それでもいまだにすべての人々を救うことは叶わない。指の間からすり抜けていく命のことを思うと、義勇は時々ひどい虚しさに駆られるのだ。 仕方がないこともある。頭では解っているのだが、曇りなく生きようと思えば思うほど、時折こうして苦しくなってしまう。されど自分たちは、この理想と現実の狭間でもがきながらも、明日も刀を振って生きていくしかないのだろう。 吐露するつもりのなかった思いをはからずも口に出してしまい、なんとなくばつが悪くなってしまった。忘れてくれ、と義勇が伝えようとした時だった。 頭頂に、ふわりと感じるあたたかな体温。それはひさしく忘れていた感触だった。 義勇は、炭治郎に頭を撫でられていた。 「……昔、弟や妹たちが小さい頃、よくこうして頭を撫でていたんです。夜寝つけない時とか、病気で機嫌が悪い時とか」 「……俺は幼子ではない」 いささか義勇がむっとして言おうとも、炭治郎はどこ吹く風だ。 「大丈夫です。冨岡さんが守れなかった人たちは、今度は俺が守ります。絶対に」 強くなりますから。 その言葉は重く、たしかな熱を持って義勇の心臓にしかと突き刺さった。 ああ。俺は知っている。 この男は、あの二人にとてもよく似ている。 強くてやさしかった、あの二人に。 義勇は目を細めながら、また「そうか」とだけ返した。炭治郎は笑いながら、義勇の頭をしばらく撫で続けていた。 次は必ず、俺が守る。 それは、冨岡義勇が己の胸に凛とした炎を灯した瞬間でもあった。
凍えるような寒さの雲取山。雪の上に飛び散った血飛沫。折り重なった家族の亡骸。そして、鬼になった少女と、その少女をなんとか守ろうとする、健気で悲しい少年の姿。
この二年間、義勇は彼らのことを忘れたことがなかった。自身が鬼殺の道に導いた、という因果もあるが、どうしても忘れることができなかったのだ。あの日、妹を取り返そうと我武者羅に向かってきた赫い瞳から目が離せなかった。
今思えば、その時すでに囚われていたように思う。 なにか、とてつもないものを秘めた、炭治郎の燃えたぎる瞳に。 二年後。炭治郎が最終選別を突破し、鬼殺の隊士になったのを師の文で知った。妹も人を喰うことなく、兄と共に鬼狩りをしているという。 単純に嬉しかった。己の見立てに狂いはなかった。というよりも、生きている、というたったそれだけことがまるで奇跡のような世界だから、どちらかというと感謝の気持ちが強かった。あの二人を生かしてくれてありがとう、と柄にもなく信じていない神仏に念を送ったりもした。 そして今日も、義勇は蝶屋敷へと足を運ぶ。那田蜘蛛山の一件以来、それが習慣と化していた。
「あ、冨岡さん!」 鼻が利く炭治郎は、すでに義勇の訪問に気付いていた。 「炭治郎。変わりないか」 「はい! おかげさまで順調に……、っと。良かったら縁側に移動しませんか?」 声の音量を下げたのは、午睡をとっている同期たちを気遣ってのことだろう。義勇は頷くと、炭治郎と共に屋敷の縁側へと場所を移すことにした。 「昨日しのぶさんが来て、そろそろ機能回復訓練をしようって話になったんですよ。なにをするのかわからないですけど、俺がんばります!」 息巻いている弟弟子の横で、義勇は「そうか」だけ返事をした。 自覚はないが、どうやら己は他者と意志疎通がうまくはかれていないらしい。先日胡蝶に言われたことを、義勇はいまだ根に持っていた。はなはだ納得しかねるが、しかし、過去を振り返ると、こちらの発言や態度で周りが妙な雰囲気になったのは一度や二度のことではない。おおむね当たってはいるのだろう。それでも、やはり納得はしかねるが。 そんなわけで、今では同僚の柱たちでさえ義勇とは付かず離れずの態度で接しているが、しかし、この弟弟子だけは違っていた。とにかく押しが強いのだ。義勇の反応の薄さなど気にも止めず、今も、善逸が、伊之助が、と同期の近況報告にいとまがない。おそらく、炭治郎は兄弟子以上に空気が読めない。普段は持ち前の明るさで誤魔化されているが、この男も相当なたまだと思う。 しかし、義勇にとって炭治郎の側は居心地がよかった。同じ師の元で学んだゆえ、そもそもの波長が似ているのだろう。まるで陽だまりのごとき炭治郎の前向きさは、義勇の心を明るく照らす天道のようだった。 「……俺たちが、もう少し早く山に入っていれば、被害は最小限に食い止められただろうか」 急にぽつりと呟いた義勇の言葉に、炭治郎がふと口をつぐむ。 鬼殺隊に身を置いてからというもの、犠牲になる隊士や市井の人々を山ほど見てきた。あまりにも目にするものだから、いつしかいちいち心を寄せるのをやめた。しかし、やめたからといってなにも感じなくなったわけではない。苦しむ者を助けたいと思い、この生業に身を投じている。必死で技を磨き、腕を上げ、それでもいまだにすべての人々を救うことは叶わない。指の間からすり抜けていく命のことを思うと、義勇は時々ひどい虚しさに駆られるのだ。 仕方がないこともある。頭では解っているのだが、曇りなく生きようと思えば思うほど、時折こうして苦しくなってしまう。されど自分たちは、この理想と現実の狭間でもがきながらも、明日も刀を振って生きていくしかないのだろう。 吐露するつもりのなかった思いをはからずも口に出してしまい、なんとなくばつが悪くなってしまった。忘れてくれ、と義勇が伝えようとした時だった。 頭頂に、ふわりと感じるあたたかな体温。それはひさしく忘れていた感触だった。 義勇は、炭治郎に頭を撫でられていた。 「……昔、弟や妹たちが小さい頃、よくこうして頭を撫でていたんです。夜寝つけない時とか、病気で機嫌が悪い時とか」 「……俺は幼子ではない」 いささか義勇がむっとして言おうとも、炭治郎はどこ吹く風だ。 「大丈夫です。冨岡さんが守れなかった人たちは、今度は俺が守ります。絶対に」 強くなりますから。 その言葉は重く、たしかな熱を持って義勇の心臓にしかと突き刺さった。 ああ。俺は知っている。 この男は、あの二人にとてもよく似ている。 強くてやさしかった、あの二人に。 義勇は目を細めながら、また「そうか」とだけ返した。炭治郎は笑いながら、義勇の頭をしばらく撫で続けていた。 次は必ず、俺が守る。 それは、冨岡義勇が己の胸に凛とした炎を灯した瞬間でもあった。
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